メモリアルダイアリー

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自分が特撮番組を見たときの気持ちや、日々の生活の中で感じたことを自由気ままに綴ろうと思います。

「モテ」の二文字にある境界線についてだらだらと。

10月が始まり、消費税増税も始まり、阪急梅田駅が大阪梅田駅に名前が変更された。そんな中、私はここ最近「モテ」について考えている。

 

「モテる」「モテない」男女問わず中高生、大学生、社会人になっても飲み会や合コン、親子の会話でもよく聞く言葉だろう。生きていくうえで必ず耳にするし口にする言葉だ。

 

事の発端はこれだ。以前、同期の女性2人と男性1人と一緒に食事をしに行く機会があったのだが、もっぱら話の軸は仕事の話と今好きな人はいるのか、モテている、モテていないという話であった。

まぁ、誰かと話をするという意味で「モテ」という話題は誰に対してもネタを振りやすい話題ではある。「モテている」のであればどんな人から言い寄られているのか、どんな立ち振る舞いをしているのか、聞いている側も魅力あるもんね、など相槌を打ちやすい。「モテていない」とすれば軽く笑い話にできたり、さらっと流してほかの話題に進める。有用性という面では抜群だ。

 

私がだらだらとここで言いたいのは、どうすればモテるのか、とか、何でモテないのか、ということではない。モテる人は努力をする、モテていない人は楽をしている、なんてのはここではどうでもいい。関係ない。検索するとそのような記事ばかりでうんざりである。

 

 

そんなことより、「モテ」ている、「モテ」ていないというところの境界線はどこなのか、ということである。そりゃ、毎日誰かに告白されるだったり、歩くだけで囲まれる、というのは別だ。

そんな非日常的なことではなくて、日常的に過ごす学校や会社という狭い世界の中で、どのラインまで行けば「モテ」ているのかというところだ。

特定の誰かひとりとすごく親しくしているというのは「モテている」とは違う。それは単にすごく親しくしており、いずれそういう関係性に発展してもおかしくはない、というレベルの話。

 

 

 

 

じゃあ、3人ほどから好意を向けられている、というのは「モテている」のか?バレンタインデーの時にチョコを20個もらう人は「モテている」と言えるのか?うーん、考えれば考えるほどわからない。

例えば義理チョコ20個もらう人は「義理チョコ」を渡されているため、友達作りがうまい人、というだけかもしれないが義理チョコ20個も渡される人徳、人柄というのはすでに「モテている」と言ってもよいのではないか?

 

では逆に「モテていない」というのは複数の人に同時的に好意を向けられないだったり、チョコをもらえないということになるのだろうか?

私の知り合いにそういう人はいるが彼女がいて10年ほど付き合い続けている人がいる。

これはその彼女から「モテている」んではないか?彼女から「モテている」というのも変に聞こえるかもしれないが、ようは他人から好意を向けられているという点では変わりはない。

 

じゃあ「モテていない」というのは誰からも好意を向けられず、アクションもされない、究極に周りに人がいない人のことをいうのだろうか。例えば男同士でも、すごく仲の良い友人がいれば、異性には「モテていない」としても同性からは人として、「モテている」のではないか。

 

繋がりを持っていたいから、友人になる。それはつまり好意を向けられいるからに他ならない。ならば、それは自分ではない他人に好意を向けられ、「モテている」に当てはまる。性別をなくし、人として、という部分での話になってしまったので少し軸とずれるのでここらへんで終わらせる。

 

軸を戻すと、「モテ」という境界線はどこなのか、である。

人数がすべてなのか、何を持って「モテている」とするのか。例えば自分が心の中で「モテている」と思っていても誰かからの視点ではそれは「モテていない」と言われるかもしれない。そうなったとき、飲み会などでものすごく恥をかいてしまうことがあるのではないかと。

「モテ」の一定のラインを決めてくれたら、話も通しやすいし数字としてわかりやすくなるので、ここのラインを超えてたら「モテている」ここを超えていなければ「モテていない」というのがわかりやすいのになぁとおもう。ただ、話のつまみとしてそこら辺が曖昧だからこそ面白くなる要素が詰まっているのかもしれないと書きながらふと思った。

きっちり決まっていないことの方が面白いことも多数あるものだよなぁ。

 

とまぁそんなしょ-もないお話でした。

 

 

 

 

 

モテキ

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